言葉のユートピア

私ヤス王(小学校の時に作ったネガティブ漫画のキャラクター名)が、いろんなことを書きたい。残したい。笑わせたい。吟味したい。感動させたい。カンボジアの隣はタイ。という思いからできたのが本ブログです。ユートピアはギリシア語で「どこにもない場所」の意味。その地上の何処にもにない場所に言葉にのって行けるように日々、綴ります。

名前:
場所: Japan

大学四年生、文学部。

11/30/2005

幾つものやさしさ

最近感じていたことに
やっと言葉が見つかった。

幾つものやさしさに包まれていることを
感じられないのは、

自分がやさしさに気付こうとしないからだ。

あたりまえのことが言葉になるまでに、
こんなに時間を要するなんてあらためて驚いた。

ちいさな生き物のうごめき

木の葉のそよめき

太陽の熱

月の輝き

雲の変幻

雨の慈悲

空の透明度

土の生命力

そして、人の心のあたたかさ。

これらは、すべてやさしさだ。

幾つものやさしさに囲まれて私は束の間の命を燃やしている。

ただ、世界は時折変転するから、

これの逆も当然言える。

それは、幾つものそねみとでも言えるものか。

ただ、今日の空気は澄んだ空気だったので、

幾つものやさしさを感じることができた。よかった。

(この文章は私の好感度を上げるために書かれています。(笑))

11/29/2005

岐阜に帰ってきた。
岐阜は空が近いと思う。

東京には空がないとよく言うけれど、
一つは高層化で空が見えないこと、
もう一つは空を見る余裕がないということ。かな。

東京にずっと住んでいる方には申し訳ないけど、
東京には空がないよ。

久しぶりに帰って散歩をしたら実感してしまった。

11/26/2005

自分の範囲

今日も茗荷谷べに日は落ちた。

茗友会という、
寮のOBの方々が集まって飲んで、食って、しゃべる会があった。

現役生として、少し準備して、少し片付けた。

OBの方と話してみた。

結局、今に生きる私達の世代は、自分の範囲が狭いのだ。

年をとった方々は、
仲間のことを自分のことのように楽しそうにお話しされる。

仲間がなくなったとお話を聞いて、
本気でかなしそうな顔をしている方もいた。

総じて昔の方は、自分の範囲が広いのだ。
他人も自分の一部であると実感をもって生きていらっしゃる。

ひきかえ、今は、ほとんどみんな狭い自我だ。

個食、個室、個性、全部「個」だ。
孤立無援の自由を「自由」だと思っている人がたくさんいる。
他者と繋がっていくからこそ本当は自由なのに。

だから自分だけ楽しいことと、
その場のみんなが楽しいことの区別がつかない人間が
できてくるのだろう。

身の回りにそういう人が少しいて、うんざりする。

では、どうするか。

そういう人たちから、私は逃げる。

こわいから。

11/25/2005

「正夢」の正夢

家庭教師先で国語を教えていたら

「逆夢(さかゆめ)」って漢字が出てきた。

知らなかったので、子どもに読み方と意味を教えた。

「これ、正夢って言う語の逆で、
夢とは反対のことが起こることを言うんだよ。」

「へー、で、正夢ってどういう字?」

「正しいっていう字に、夢って書くんだよ。
意味はね、夢に見たことが本当に現実で起こることだよ。」

(子どもはノートに正夢と書いた。)

「あ、これ、今日夢で見たこととおんなじだ。」

「???もしかして正夢って字を書く夢見たの?」

「うん。」

11/24/2005

詩人と哲学者と私と。

もう、明らかにひと言で言ってしまえば、
萩原朔太郎とショーペンハウアーは同じ世界観でこの世の中を見ている。
読めば読むほどそうとしか思えない。

「手のとどかないものへの憧れ」が「詩の原理」で、
「生きようという思いが世界に現象している」が「意志と表象としての世界」
だとおもう。

しかも、二人とも散文やアフォリズムが大好き。

もっとくくってしまうと、
ふたりとも現実を軽視しないのにロマン主義なのだ。

ロマン主義は病気だ。とゲーテが評したが、萩原なら、
「病気だよ。だから何。病気だから慰めを書くのじゃないか。」
と反論しただろう。

ゲーテと親交をしながらも
結局決別したショーペンハウアーも言いそうな台詞だ。

一つの精神が違った時代に違った場所で現れると
こういうことになるんだと私はおもった。

ショーペンハウアーの生まれ変わりが
萩原朔太郎じゃないかと思うことさえある。

哲学的考察から詩作へという道順がありありと見える。
輪廻っぽい。

さて、どうでもいいけど、書いてて気付いた。
私は散文の方がうまい。

詩を描いてもなんかよく分からない。
インスピレーションがない。

佐藤信夫によると、
散文は認識を重視する人が書けるものらしいから、
結局、私は認識重視なんだなぁと改めて思う。

つまり感情と理屈なら理屈の方を取ってしまいがちという性格。

信じたいのは感情なのに感情を信じ切れない自分がいる。
だから、理屈くさいドイツが好きなんだろう。

俳人や詩人のことを心から尊敬しているが、
私にはなれそうもない。

生まれ変わったら詩人になりたい。

ただ、今生は偏屈な馬鹿でいさせてください。

11/23/2005

たべもののために

食育基本法というものができて結構たつ。
どうなったのだろうか。
私個人としては、
たべものへの感謝知識を法制化するのは少し・・・。
では、代案は何かというと、

学校で飼っている鶏を、
半年に一度生徒の目の前でしめる。

一見残酷だが、われわれが生きていくために
毎日どこかで誰かが代わりにやっているわけで、
長い間、人はこうやって生きてきた。

インドネシアに行った友達が、
鶏の斬首、首無し鶏が全力疾走で走り回るのを見た。
といっていた。

父も泣きながら鶏をしめたことがあるといっていた。

こういう経験をした人は、
人殺しなんて恐ろしくてできない。
たべものにも多く感謝するだろう。

実はこの私、
鶏をしめたことも、
様子を見たこともない。
根本で命というものが分かっていない。
抽象的な命のことしか分かってない自分が怖い。

ただ、残酷なものは学校から排除される傾向にあって、
今では、カエル、フナの解剖も
ほとんど行われていない。

残酷だからこそ私達は生きていけるのに。

生き物に血が流れること、
臓器がくさいこと、
生きようとする意志があらゆる所に現象していること。
それを理解するためには、
目の前で、動物を殺してみないと分からない。

法律よりも、経験を。

しかし、保護者の方から必ず反論が出てくる。
「残酷だ。」と。
そうやって言う人に限って、
日々、自分が残酷なことを糧に
生きながらえ続けている自意識がないのだ。

これではたべものに感謝できない。

11/21/2005

望み

 Hoffen wir, aber nicht zu viel.
(望もう。多望でない望みを。)
という言葉、モーツァルトの言葉だそうです。
「望みを持ちましょう。でも望みは多すぎてはいけません。」
という訳は、お説教っぽくていやだ。
がしかし、私は今日までこの言葉、ヘレン・ケラーの言葉だと思っていました。
どうしてこんな思い違いをしたのかは全く不明です。

しかし、日本には「希望」という言葉があります。
あまりに言われすぎたせいで、ありがたみがないですが。
「希望」っていうのは「わずかな望み」という意味で、
(「希」に「まれ」という意味があるから。)
もともと、暗闇の中に一筋あるかなきかの望みを指すはずです。

望みは暗闇の中にしか差し込んでこないということだと思います。
歓喜が苦悩の中にしか生まれ出でてこないように。
だから、より多く辛酸をなめたものが、
より多く喜びを味わうことになるはずなので、
みなさん、悩んでください。
私も悩み続けます。

ただ、今日は朝からとてもいいことがありました。

朝が綺麗でびっくりした。
夜が綺麗と思ったことはあったけど、

生まれて初めて朝が綺麗でびびった。
「朝のように美しい。」と
変な形容詞を遣うドイツの詩人がいたけど、
ほんと、その通り。(ドイツ語思いだせなくて申し訳ないです。)

11/19/2005

命名って言葉について。

きちんと訓読みすると、
「名づけて命をあたえる。」
ということか。
親が子に名をつけるということは、命を与えることなんだ。
なんて思ってしまった。

でも、人類っていうのはいろんなものに名詞をつけたり、
本来、形のない気持ちや様子や状態に形容詞を付けたり、
して来たわけで、
つまり、言葉が命を媒介する。
そうすると、言霊信仰は当然あってしかるべきで、
まともなものを書いてしかるべき所に発表する人は、
多かれ少なかれ言霊信仰者なのだろうな。

私も言霊信仰者で、
今私が日々綴っている、
あるいは織っている言葉というものは
縦糸と横糸があって、
それは、時間(通時)と空間(共時)をつなぐ絆になる。
と考えている。
だから、本とか言葉とかを異様に軽視する人はあんまり好きじゃない。
人間関係の中から学ぶことももちろんとても多いけど、

 本の中から学ぶとき、なぜ、
本を書いた人も昔、生きていた人だと考えられないのか。
読むという行為は、過去の人々と人間関係を結んでいることだ。
本を読むことは、過去と過去の人々を呼び出すこと。
 
 「詠み」と「読み」と「黄泉」はどう語源なんだし。
つまり、「読むことは過去の人を甦らせること(黄泉がえらせること)」
そのために言葉が必要。
その言葉を善用すれば、詩になり、
悪用すれば呪詛になる。
なんにしても、言葉には力があって、
ついでに、言葉はいつも時も距離もなんなく超えてしまう。

人間と心、物、事、が繋がるへその緒のようなものが言葉、
つまり命名だったりする。
なぜか名をつけると命を持ち出す。

書いてみて「名づけられた葉」という曲を思い出した。

やっと言葉のユートピアというふさわしい内容が書けた。

11/18/2005

命名

観葉植物のサンデリアーナがなかなか元気に育っている。
そろそろ植物名じゃない名前を名付けようと思っている。
何にしよう。

緑とかどうかな。
そのまんまか。
ショーペンハウアーって人は
飼い犬にアートマンというインド哲学系で
「いのちの根源」という名前を付けたらしい。
それを見習う手もあるか。

今書きながら考えていますのでしばしお待ちを。
うーん、さーや!とか。(笑)

決まった。(上の行から15分後)
ヴィレエル(Wille(意志)+(e)l(指小辞))かな。
発音しづらい・・・。

11/16/2005

鏡の中の鏡

今、寝ようと思ったら、気付いてしまった。
下に挙げて評価したドラマ、
全部主人公が恋人と別れるドラマなんだ・・・。

なんてことだ、昔からバットエンドが好きだなんて。
こりゃぁ、ゆく先疲れるぞ。
こんな人間と私は死ぬまでつきあっていくのだ。

もっともっともっと、
普通の幸せを普通に受け入れられる人になりたかった。

でも無理!!!

理由はこんな自分も好きだから。
我ながらひどい理由だな。(笑)

不機嫌なジーン

再放送でやっていました。
ドラマでカタルシスが起こったのは「愛という名のもとに」
以来、です。
幾つか見逃したのでDVD全部借りて、見ました。

何故、人は悩むために生まれてきたんだろう?
見えている道をただ、まっすぐ進めばいいのに、
道草ばかりしてしまうし。

最近よく思うのは、
悩むということは何かのチャンスなのではないかということで、
だから何?みたいな。

ということで、いいドラマでした。向田邦子賞とるわそりゃ。

深い深い苦悩の底から
根源的な何かが私に対峙するとき
世界は、最も美しく醜い姿を見せてくれるだろうか。

まだまだまだまだ明晰判明ではない表現だけれど、
いつか20文字以内で世界全体を表現し尽くせるよう
言葉と魂を磨きます。
実はこんなことが私の生きる目的なんだ、
16歳くらいからそう思っていた。
暗いやろ。(笑)
そして、そのための一歩が卒論ですから、
二万字以上書くよとりあえず。

その文章を抽出して人として経験もいっぱい積んで、
一万九千九百八十文字分、要約します。
実は、削る作業の方が果てしないのが文学だったりして。
あ、これも私にとってですけどね。

思い出したけど、あれの方が好きなっんだった。
「世紀末の詩」野島伸司にやられすぎだよ、馬鹿みたい。

11/14/2005

きらい!きらい!きらい!

きらい!きらい!きらい!

と言う歌詞をきいてびびった。
嫌いなことを歌にするなんて、私は初耳だ。
川本真琴に敬服。

嫌いという方法で世界に関わる方法もあるんだなぁ。
しみじみ。
みんな好きっていう気持ちだけ、
大事にしすぎて片手落ちだ。
嫌いも大切にしたい気持ちのうちのひとつです。
私にとってはね。
きらい!きらい!きらい!

11/10/2005

見つけた言葉。

あらゆる快楽のすんだあとで
まだ、眠るという快楽が残っている。

いい言葉だ。

11/07/2005

豚肉とか、お米とか、人間とかのこと。

豚肉の一枚肉をただ焼いただけ。
これでこんなにうまいのに世の中は牛肉ごときで大騒ぎ。
世の人はおいしいものじゃなくて、
高いものを食べたがるからこういうことになるのか。
おかげで、安くておいしいものがたくさんある世の中です。
例えば麩菓子とか、
カンパンとか、
お米とか、
近所のスーパーの純米酒とか、
ぶりの切り身とか。

昔、食いしん坊万歳で活躍した辰巳琢郎は、
一番好きなものは?ときかれて、
「炊きたてのご飯。これ以上のものはない。
毎食食べても飽きないのは米以外にあり得ない。」
と言っていた。
至言だと思う。
人も食べ物も本も、毎日関わっても飽きないもの。
これが究極なんだろうと思う。

個人的好みを長々書いてしまった。

11/06/2005

いいこと。

いいことがあった。
悪いこともあった。
晴れる日も。
塞ぐ日も。
何もなかったことも。
祈ったことも。
誓ったことも。

裏切ったことも。
後悔したことも。

でも全て、興味深いことだった。
よい経験だった。

死が私の躰をいだくとき、
そう言い切ることができたら。
きっとそれでいい。

雨の雲の空の下、
狭い部屋の片隅で、
僕は思った。

11/04/2005

民主、民主といーえども♪

オイッチニー♪
いばるはわーるいやつばかり♪
オイッチニー♪

黒澤明「まぁだだよ」からの名言。
どうしようもない人間たちが
どうしようもないことをしでかしつづける現代に。
乾杯!
何年たっても馬鹿の種類はつねに一定。

11/03/2005

mixi

面白いけど、何でこの人が見てるのかわからないと思うことがあって怖い。
そういう人がコメントくれればまだ怖くないんだけど、
素通りで見てるだけという人怖い。

私は男だから良いけど、
女の子とかレディとか、ミセスの方々は怖いだろうなぁ。

でも、雰囲気的に悪用する人は少なそうでいいと思う。
友人に紹介されないと入れないということは、
変なことしたらリアルワールドの友人にばれそうだもんね。
これはいい。村社会みたいで。

11/01/2005

新人について。

自由の名を盾にして、無礼な馬鹿がやってくる。
これが新しい時代の担い手たちだ。